大藪春彦『蘇える金狼』 | 文学どうでしょう

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蘇える金狼 野望篇 (角川文庫 緑 362-2)/大薮 春彦

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大藪春彦『蘇える金狼』(角川文庫、全2巻)を読みました。

ぼくは「全集」や「選集」と名のつくものが何故だか無性に好きでして、1997年から1998年にかけて光文社文庫から全9巻で刊行された「伊達邦彦全集」を買ったんですよ。どんな作品かも知らず。

伊達邦彦というのは、大藪春彦のデビュー作『野獣死すべし』から登場するダークヒーローで、分かりやすく言うならイアン・フレミングの小説『007』に登場するジェイムズ・ボンドみたいな感じです。

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ただ一つ違うのは、英国のために組織で動くスパイのボンドとは違って、伊達邦彦は自分のために動き、ほとんど一人でミッションに挑むこと。より性と暴力、そして血の匂いが強い物語と言えるでしょう。

当時ぼくはこういう血生臭い冒険小説は読んだことがなかったですが、忍者を描く歴史小説に雰囲気として近いものがあるので、物語にすんなり入っていけて、すぐに夢中にさせられてしまったのでした。

暴力的で男性的な物語を書いた大藪春彦は、今ではあまり好んで読まれないようですが、好きな人にはたまらない独特の世界観が魅力。現在の作家で言うと夢枕獏、馳星周、花村萬月などに近い感じですね。

ぼくが大藪春彦を読み始めたきっかけについて書いてきましたが、そんな大藪春彦の代表作が今回紹介する『蘇える金狼』。角川文庫からは野望篇、完結篇の二冊で刊行されていますが、一続きの作品です。

主人公は朝倉哲也という29歳のサラリーマンですが、イメージとしてはほとんど伊達邦彦と重なると言っていいでしょう。昼は冴えない男のふりをして過ごし、夜になると暗躍し始める、ダークヒーロー。

何度も映像化されていることでも有名な小説で、1979年の松田優作主演による映画、1999年の香取慎吾主演によるドラマがよく知られています。残念ながらぼくはまだどちらも観ていないのですが。

朝倉哲也は苦労して生きてきた人物。両親を早くに亡くしアルバイトに明け暮れながら大学の夜間部を出て、なんとか大手商社に就職出来ました。ところがどんなに真面目に働いても先は見えているのです。

親会社の社長一族と天下りの役人あがりばかりが上にひしめいているので、たとえ出世した所でたかが知れているのでした。しかしやがて朝倉は上層部が共謀して不正な利益を貪っていることに気付きます。

 だが、それに対して朝倉が義憤を感じているなどと言えば嘘になる。その反対に、朝倉の計画は、彼自身が会社を食いものに出来る立場にのし上がることであった。
 まともな手段で野望が達成出来ないことは承知だ。しかし、暴力と姦計によれば、その野望が実現する可能性も無いとは言えないわけだ。
 だから朝倉は、表面は平凡で真面目な社員のポーズを崩さずに、チャンスをうかがっているのだ。週に二日、ジムに通っているのも暇潰しのためではない。朝倉はこの二年間、生活費以外の月給のほとんどを、体力の養成と特殊技術を身につけるために費してきたのだ。敗れてもともとの勝負だから賭けてみても悪くない。
(野望篇、14ページ)


力のある者がうまい汁を吸える腐った世の中なら、自分はさらに大きな力でのし上がってやろう、そう思った朝倉は、平凡な社員のふりをして過ごしながら、二年間かけて徹底的に自分を鍛え上げたのです。

サラリーマンの誰もが憧れる、権力への階段を、普通とは違った方法で登っていこうとする物語ですから、面白くないわけがありません。

腐った奴らに一泡吹かせようとすること、昼と夜とで別の顔を持つことの痛快さがこの物語の何よりの魅力。スリリングで息つく間もない怒涛の展開にぐいぐい引き込まれてしまうこと請け合いの作品です。

作品のあらすじ


京橋二丁目にある東和油脂東京本社経理部に勤める朝倉哲也は目立たないものの、その真面目さで周りから信頼されていました。しかし朝倉には裏の顔があり、来たるべき日に備え準備を進めていたのです。

同僚の飲みの誘いをかわすと、ジムに行って体を鍛えました。断っているものの、今ではプロデビューの誘いがあるほどの腕前。親会社である新東洋工業の銃器部門の工場から盗み、拳銃も用意出来ました。

何をするにも資金が必要ですから、朝倉は銀行の現金運搬人の動きをチェックし、綿密な計画を立て、やがてその計画を実行に移します。顔を見られてしまったので、やむをえず男は殺すことになりました。

そうして共立銀行から千八百万円を奪うことに成功した朝倉でしたが、無邪気に喜んでいられたのもほんのわずかな間。千八百万円はほとんどが続きナンバーになっていて、本店に控えられていたのです。

つまり少しでも使えば、そこから足がついて捕まってしまう、熱い金なのでした。しかも、犯行現場から移動する時に乗ったタクシーの運転手が証言をしており、顔を覚えられていたことも気にかかります。

横須賀へ行った朝倉は金を安全な金に換える方法を思いつきました。

 熱い札束を一度麻薬に替え、それを再び安全な紙幣に替えるわけだ。面倒な方法だが、それが最も安全と思える。朝倉から熱い札束を摑まされた連中は、たとえ警察の追及を受けたところで、それをどこから入手したかをしゃべるわけにはいかない。
 だが――そのかわり、俺を待つのは、暴力組織の執拗な復讐だ、と朝倉は心を曇らす。しかし、それに対しては別の手段を講ずればいい。怖れているだけでも何も産むことが出来ない。
 それから二時間後――朝倉は京浜急行を使って戻っていた。品川で国電に乗り替える。夜の帷はネオンとヘッド・ライトに押しかえされていた。(野望篇、55ページ)


一旦麻薬と換えるといったところで、そもそもどうやったら大掛かりな麻薬取引に介入出来るかが分かりません。おかしな所をつついてしまった朝倉は、暴力団の組同士の抗争に巻き込まれてしまったりも。

ようやく大物の政治家で、市会議員の磯川が麻薬の取引をしていると知った朝倉は、磯川に近付きますが、突如現れた朝倉という正体不明の男に警戒した磯川との取引は、なかなかスムーズにはいきません。

大金を持っていながらその金は使えず、動けば動くほど、その日の食事にも困るようになっていった朝倉は、当座の活動資金を手にし、自分の会社の上層部の情報をつかむ、一挙両得の方法を思いつきます。

自分の上司小泉が囲っている女に近付くことにしたのでした。髙いスーツを買い、高級車を借り、偶然を装って朝倉はその京子という女に近付きました。そして麻薬の力を借りて自分に惚れ込ませたのです。

「わたし、こんな変な気持ちになったの初めてよ。ね、お願い。どこにも行かないで……」
 京子は横向きになって、毛布を腰の上にずり上げた。明度を増してきた朝陽がカーテンの隙間から射しこむなかで、競走馬のような筋肉の躍動を見せて汗を拭く朝倉を、目眩いものでも見る眼差しで凝視する。
 朝倉は腕時計をつけた。もう午前七時近い。再びベッドにもぐりこむとタバコに火をつけ、京子にはヘロイン入りのほうをくわえさせてやった。火を移す。
 二人は互いの眼を見つめあって、ゆるやかに煙を吐いた。いつもは碧みがかっている白眼の部分が、かすかに赤らんだ京子の瞳には、女そのものの艶があった。(野望篇、193~194ページ)


朝倉は京子に偽名を名乗り大学で講師をしていると言います。会う度に二人の関係は深まっていき、朝倉は目的通り当座の資金と車を手にすることが出来ました。これで後は磯川との取引を成功させるだけ。

ところが会社で思いも寄らぬことが起こります。次長の金子の前に26、7歳の美しい顔をした青年の恐喝者が現れたのでした。久保と名乗ったその男は、金子と愛人の写真を持ってゆすりに来たのです。

二人の会話をひそかに盗聴していた朝倉の耳に、さらなる驚きのニュースが飛び込んできました。久保は乗っ取り屋として有名な鈴本と繋がりを持っており、しかも、金子の不正の証拠を握っているのだと。

「僕は、あなたが経理部長と共謀して横領した金額を書きこんだ手帳の一枚一枚を接写した写真を持っています。あなたが恭子の部屋でお眠りになっているあいだに、不作法ではありますがカバンを開いたのでしてね」
 久保の口調は、金子を愚弄するように馬鹿丁寧だ。
「ああ……!」
 金子は耐えきれずに呻き声をあげた。芝居もどきに頭を抱えこむ。
「会社を危機に陥しいれながら、あなたは女に溺れている。何も知らされていない善良な株主はどうなるんです? このことを鈴本先生が聞いたら、さっそく乗り出してこられるでしょうな」
(野望篇、394~395ページ)


鈴本が出て来るとなると金子の首だけではすみません。会社の重役たちは久保をどう対処するか、言われるがままに金を払うか、金を払えば本当にそれで解決するのか、或いは殺してしまうかを協議します。

東和油脂と久保の息つまる駆け引きの間で、自由に動き回ることの出来る朝倉はこの恐喝事件に自分のやり方で介入することにして……。

はたして、朝倉は磯川との取引を無事に終え、さらにその資金を元に、長い間思い描いていた成功を手にすることが出来るのか!?

とまあそんなお話です。格闘技と銃器に精通した男がいくつもの危機を乗り越え、闇の世界で激しい戦いをくり広げる面白さのある小説ですが、意外と朝倉が間抜けなのも、ある意味醍醐味かもしれません。

まだプロフェッショナルになりきれていなくて、ぼろぼろミスが出て来るんですよ。金を強奪したのはいいけれど、続きナンバー故にその金が使えなくて食うのにも困ったり、しょちゅうとっつかまったり。

そうした爪の甘さには思わず笑ってしまいましたが、でもたしかに、麻薬取引なんてどうやってやったらいいか分からないですもんね。そうした「はじめての闇社会入門」みたいな所もこの作品の見所です。

いくつものスリリングな状況が重なり、大金と権力を手に入れるため相手を追いつめたり、追いつめられたりする朝倉の物語。小説として面白いですが、血生臭い感じなので苦手な人は駄目かもしれません。

『蘇える金狼』は、大藪春彦を読む最初の作品としても最適な本だと思います。今は絶版ですが、古本屋などで探せば本自体はわりと手に入りやすいと思うので、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

明日は、大沢在昌『新宿鮫』を紹介する予定です。